昭和47年4月26日 朝の御理解 (末永信太郎)
御理解第78節
神の機感にかのうた氏子が少ない。身代と人間と達者がそろうて三代続いたら家柄人筋となって、これが神の機感にかのうたのじゃ。神の機感にかなわぬと、身代もあり力もあるが、まめにない。まめで賢うても身代をみたす(尽くす)ことがあり、また大切な者が死んで、身代を残して子孫をきらしてしまう。神のおかげを知らぬから、互い違いになってくる。信心して神信心して神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き身代もでき、一年まさりのおかげを受けることができるぞ。
神の機感に叶う、と。まあ、ここに具体的に人間と身代と達者がそろうて、しかも三代続いたらと仰っておられます。そういう神の機感に叶う信心というのは、どういう信心を言うのであろうかと、まあ、お互い究明させて頂いて、神の機感に叶うた信心をさせてもらいたいと、こう願うわけです。どうでしょうか皆さん、本気で神の機感に叶う信心させて頂きたいと思わにゃ、だから駄目なんですよ。
自分がおかげ頂きさえすりゃよか、というような信心じゃ、だからいけない。ね。神様の気心に叶う、そういう信心をさせて頂きたいと願う。まず、そこを、その願いがなかったら、いくら(言うたって?)同じですから。ね。どうぞ今日も神様のお心に添い奉る一日でありますように、といったような祈りが、だから第一なんです、願うと言うても。今日もどうぞ、貴方のお心に叶う一日でありますように、と。
ね、だから、願いの第一は、私はそれだと、こう思う。そこで私どもが、そこで一つの、まあ、参考と言うかね、まあ、手本にさせて頂かなければならないという信心を先ず見るが、一番早分かりがすることになるです。そこで、まあ、私どもの大先達であるところの、まあ、九州の租と言われる桂大先生の御信心とか御信心ぶりというものがね、やはり、神の機感に叶われたからこそ、あのような、九州の生神様と言われるほどしの御神徳を受けられた。ね。
ですから、なら、桂先生の信心を、まあ、実際に、まあ、私どもは知りませんから、結局、後に残されたいわゆる話を聞くより他にない訳でございますけれども。とにかく、こと神様のことなら、前には進んでも後ろには引かんという、後ろに退かんという、その、不退転の信心とでも申しますか。ね。
もう、それこそ、ここで言われる、一にも神様、二にも神様、三にも神様というわけなんです。ね。こと、それが神様のことであるならば、後ろには絶対引かんと、ね、もちろん、ニ代金光様四神様からあのようなご指導、ご教導を受けられて、しかも四神様のおかげで今日の桂松平があると分かられたところからです、ね、(桜惣五郎?)は、ね、七度生まれ変わって、この恨みを晴らさずにおくもんか、と言うて死んだそうでございますけれども、桂松平は、それこそ七度生まれ変わって、道のために尽くしますとお誓いになったということです。いわゆる、それを(七生豊胸?)とこう言っておる。ね。そういう方だった。ね。
ですから、やはり、そういう信心がです、私どもにはたして、そういう思いがあるかどうか、確かめて見なきゃいけませんよね。もう、言うなら、心から根から道のために尽くそう、というご精神なんですよね。それで、今日のような、九州に道が広がったわけです、そういう御信心。だから、そういう生き方は、私はだから、神の機感に叶うと思いますね。ね。
お道の信奉者である、と。ね。そのお道の信奉者としてです、神様の、ね、言うならばごひれいを、ね、打ち立てる。だから、その反対に、ね、神様のお顔を汚すような信者氏子ででもあってはならないと、いつも心に思うとかにゃいけない。ね。そういう不退転なものがです、信心には先ずなからなければ。神の機感に叶われたのは、そういう先生の御信心が機感に叶われたのであろうと、こう思う。ね。
次に、例えば福岡の吉木先生。福岡の吉木栄蔵先生。ね。もう、7年なんですかね、真言密教ですか、お大師様の御信心を長い間なさった。そして、その全国行脚して回って、自分の身の家の罪滅ぼし的な信心を一生懸命なさった。そして、たまたまお道の信心を頂かれて、もう、心機一点。いわゆる、お道の信心の、広大無辺の御神徳をお持ちの神様であることが分かられて、桂先生のいわば一の弟子になられた。ね。
もう、大変ないわゆる修行の出けられたお方であった。そんなわけで、他の信心で大変な艱難辛苦というかね、そういう修行を身に付けておられましたですから。もう、大変ないわゆる(がんぎょう?)の願うこと、それに体する伴うた行ということが、もう徹底してお出来になった。四神様のお言葉で、がんぎょうにかけては、吉木栄蔵の右に出るモンなあるまいというほどしの、いわゆる、がんぎょうをなさったんですね。もう、これは亡くなられるまで、その、色んながんぎょうをなさったそうですね。
月に一週間の断食修行は、もう亡くなられるまでなさったということです。ね。そして、ああいう大徳を受けられて、なら、今日、二代、三代、そして四代として、あのようにごひれいを受けておられるところを見ると、ね、代々おかげを受けておられるところを見るとです、なら、そういう生き方もまた、神の機感に叶うことが分かりますね。ね。
表行が最近はとやこう言われますけれども、確かに四神様が仰るように、表行が出けんもんのに心行が出けるか、と仰る。もう、私どもは本当にね、もう出ける時には本気でなさにゃいかん。だから、私はあんまりその、今のがんぎょう的なことは、私自身もあんまり好きじゃないです。色んなことさせて頂いたけれどもです、まあ、ここでは本当に、まあ、とにかく教えを頂いて、教えを行ずる以外にはないといったような、それを行としておるのですけれども、やはり、止むに止まれんということになると、ここでは、水行なんか皆さんも沢山なさっておられますね、もう。
断食なんかはもう、皆さんよくなさいます。しかも、もう、無期限の断食なんかは(思い立った人達は?)いくらもあります。皆さんもやっぱり一遍通りはすることもなさったと思うんですけれども、これはやはりですね、その、自分のこれは本当にその、止むに止まれんと、こう燃えて来ておる時にですね、しなきゃ出けるこっじゃないですね、がんぎょうというのは、表行というのは。
だから、その、表行もです、私は神の機感にやっぱり叶うと思うです。それだけ一途に一生懸命に生神金光大神天地金乃神を念じるのですからね。やはり、神の機感に叶う。それは、なら、現在の福岡教会を見るがいい。やっぱり、二代、三代、四代、どのようにごひれいを頂いておられるという事実があるじゃないか。ね。ですから、金光教の信心には、どうしても、そういう生き生きとしたがんぎょうでもさせてもらわなければおられないという、それは、私どもの、これは私の荒行はがんぎょうというものではなかったようですね。それは、もう、本当に色んな表行させてもらったけれども、もう、ただ一心に生神金光大神様を唱えたいという一念でしたね、お水をかかるのも、断食をさせてもらうのも、様々の例えば、ね、例えば悪書追放と言ってますけれども、その悪所からわざと(よって読む?)ような人達がありますね。
私どもは、あの時分はもう絶対、あの、壁に貼られた新聞でも読みませんでした。もう、読む物というものは絶対読みませんでした。もう読むものは、お道の信心のこと意外のものは読まない。これは神様から、それは厳しく頂いておったからでもありますけれども、自分の心を汚すような読み物なんかは、読んで有り難うなりたいてん何てんていう、おかしいですよ、どげん考えたっちゃ。
金光様の信心な有り難うなりたい、有り難うならせて頂くということでしょうが。それで、自分の心を満たしたり汚したりするような本を読むということだけでもいけないです。信心しよってから、もう、ほんな、もうエロ写真のこうついたごたっとやら、その、それこそ汚らしい、その、表現で書いとるお書物なんか読むなんてん、もう、金光様の信心させて、もう、それだけでもおかげ頂かんですよ。ね。
ですから、その、表行という表行は、例えばそういう汚い、良くない書物を読まんという一念だけでも行になるです、やはり。ここにも皆、沢山持って来るから、持って来る度に、私は家内には必ず捨てれと言うけども、ああ、どっかからか、やっぱあっちこっちから持って来るでしょう、みんなが。実に困ったことです。そりゃあね、段々おかげを頂いて、どんなものを見ろうが、どんなことを読もうがです、それこそ、この信心の心には一つも微動だもしないような信心が出けてからなら、まだ別です。
まだ稽古中の者はね、もう、例えばね、もう、だいたい新聞なんか読まんが一番いいです。ね。本当にこれはね、本気で信心修行させてもらう時にはね、読む暇がじゃなくて、そげなモンに目は移らんです。まあ、ね、例えば、なら、がんぎょうといったようなこと、表行というようなことがです、ね、やはり神の機感に、やはり叶うということです。だから、表行をせにゃいかんということです。
自分の心がけ次第じゃ、もう、どんなに座っとってでも出けるということ、表行は。今言うように、その、ね、お道の信心以外に読むものは読まんといったようなの。ね、修行でも出けるんですから。ね。次には、久留米の初代石橋先生。ね。それこそ、あのような、まあ、大空のようなお方。三代金光様が、本当に真の人というのは、石橋先生のような人だろうという意味のことを仰っておられる。ね。
出過ぎもせず、いわゆる、(ツン?)としたところがないと仰っておられるですね。ツンとした、威張ったところがない。と言うて引っ込みすぎもせず、石橋さんこそ真の人だろうと、こう仰ったということでございます。まだ、本当にその石橋先生ていう方は、そういうお方でしたですね。
私どもも、なら青年時代は久留米におりましたから、毎日お参りをさせて頂いてお目にかかったんですけれど。まあ、それは、もう本当に、もう春の(もの?)を感じさせるような豊かな方でした。もう、タイプからそうでしたがね。そこで、んなら、石橋先生はどういうことを持って信心の中心になさったかと言うと、いわゆる、信心辛抱さえをしとりゃ、ものごと整わんことはない。いわゆる、信心辛抱をなさった。
ね、信心辛抱し抜かれた。そして、まあ、これは私の想像ですけれども、段々、もう辛抱の必要がないほどしのおかげを頂かれたと思いますね。辛抱するといったことも無くなられてしまった。だからこそ、ああいう大徳を受けられた。ね。だから、その信心辛抱を、最近合楽で言われる、梅の花の信心が欠げておる、と。その梅の花の信心をいよいよさせて頂くことは、神の機感に叶うことが分かりますよね。
近くは甘木の安武先生です。当時、それこそ日本一の大徳者と言われ、仰がれなさるほどしの大徳を受けられた。その先生の、なら御信心は、まあ、どういうことが先生のご信心の、まあ、中心をなしたか、と。これは、まあ、私どもの知るところではないのですけれども、ね、いかに天地金乃神様の御恩徳を体得された。最後んところにあります、神の大恩を知らんからと仰るが、神の大恩を知られたという意味においては、もう、それこそ右に出るモンなお在りにならなかったじゃなかろうかと思うくらいに、神の大恩ということに対して、もう大変な、それが事実、生活の上に現された。ね。
それこそ、枯葉一枚でも枯れ枝一本でも、天地金乃神様の御物とされた。もちろん、それより大きなものは尚更のこと。昨日、御理解三節から、ね、聞いて頂きましたように、天地金乃神と申すことはという、そのことを、いわば体得された。自分の物とては何とでんない。一切が神様の御物としての頂き方を行の上に現されて、ね、言うならば一掬いの水の上にでも、神恩に対して報い奉る生活こそが、信心生活だという信心を打ち立てられたですよね。甘木王国と言われるほどしの大ごひれいを受けられた。ね。
ですから、私どもはそういう神の機感に叶うということがね、神の機感に叶う信心をお取り立て頂きたいと言うのですから、私どもの、そうした先達の方達が浴しておって下さった信心を、やはり、もう、あれこれ言うことはいらんじゃないか。私どもの大先輩である先生方が残された信心を、そのまま頂くことになったら、機感に叶うことなんだ。ね。
それこそ、こと神様のことなら、前には進んでも後ろには引かんという、そういう信心を頂きたい。ね。その為には、一(二?)に生神金光大神、天地金乃神を唱えたいばっかりに、または、お願いをさせて頂く、(神のお願い成就?)にならなければならない事のためにです、ね、もう、自分のものは、それこそ、もう厭わないほどしの表行に打ち込まれたという吉木先生の御信心がです、金光教的じゃないようなところは絶対ない。金光教の中には、そういう信心がなからにゃいけんて、私は思うです。ね。
その証拠には、神の機感に叶われた証拠には、現在、あのようなおかげを二代、三代、四代と続いておるじゃないか。神の機感に叶われておった証拠なんだ。ね。久留米の石橋先生はです、あのような豊かな大きな信心をなさった。そういう、例えば真似事でもさせて頂きたい。信心生活とは、この世に生まれて来た時に、ね、シャツ一枚でも着て来た赤ちゃんなおらんじゃろうが、と。ね。
もう、それこそ、丸の裸でこの世に出て来たのだから、この体に着いておる物はもちろんのこと、ね、一切が神様の御物であるという、ね、いう生き方。そういう生き方こそが、信心生活だという風に教えておられた。ね。いわゆる、なら、甘木の初代なんかの場合でもそうである。ね。
あの大徳を受けられた。それこそ、今日のここの、天地の大恩、天地の御恩徳というものをです、知って、その御恩徳を現される修行をなさった。ね。それが、だからもう、あれこれ言うことはいらん。私どもには、そういう立派な手本がです、あるのですから。んなら、その内のどれが、私に一番適しておるかなんて言わずに、どれもこれもせにゃいかんです、合楽の場合は。
その一つも、どれも出けとらんといったようなことでは、なるほど、神の機感に叶うはずはないと、一つ分からせてもらわにゃいかん。私の師匠であるところの、荒巻先生だってそうである。ね。こりを積ますな、こりを積むな、身を慎め。もう、慎み抜かれた信心生活。ね。人に不愉快な思いをさせるようなことの、全然なかった先生て(私だん?)子供心にそう思うとります。もう、実にそんなお方でした。
もちろんご自分としても、人からどんなことが( )かけの場合であってもです、それでこりを積むようなことがあってはならんということに、信心の修行の焦点を置かれたんです。それに何ぞや、人にはこりを積ませる。そして、自分はこりを積む。ね。そういうことでです、おかげの頂けるはずはない。いや、神の機感に叶うはずはないということをね、私どもが知らなければいけない。
ね、私どもは、まあ、かじっただけではあるけれどもです、ね、だから、先生方がなさった修行なりと、どげな修行でも一遍通りさせてもらおうと、私は思いました。これは、信者時代です。それはもう、貴方のいよいよ御本部行きじゃろうてんなんてん人から言われると、身がゾッとしよった。そんなことは、思いはさらさらなかったから、金光様の先生になろうてん何てん。
けれども、人間がした修行じゃから、私もおかげを頂かんならん、どうでもおかげを頂きたいと思うておった。だから、なら、先生方がなさった修行は人間がした修行であるならば、私、大坪聡一郎という人間が出けんはずはない、といつも思うておった。ね。
だから、私はどの先生の方の信心でも、真似方ではあるけれども、させて頂いた。ね。そうして、んなら、今日、私がここで言っておるようにです、ね、全てのことを御事柄として受け抜いて行こうということに、そういう結論が出て来たわけなんですよ。ね。
ですから、その御事柄として頂くということの中にはです、最近言われる、その黙って治めるというようなことが、その内容になるわけなんです。御事柄として、例えば頂くのですから、言うことはいらんじゃない、黙って受けて行きゃいい。ね。ですから、只今申しましたようなです、生き方こそが、私は神の機感。
だから、私の場合はまだね、二代、三代、四代という風に、その、まあ、続くか続かんか分からんけれども、そういうおかげの頂けれる基礎、土台というものをね、いよいよ本気で作っておきたいと、こう思うのです。昨日、御理解三節を頂きました一番最初のところを、まあ、説明とう致しておりませんでした。
今日の御理解に関連しておりますから、聞いて頂く。天地金乃神と申すことは、ということ。これは、どういうことだろうか、どういう説明したらいいだろうかと思うて、昨日から盛んに考えさせて頂いておった。なかなか、やっぱ難しい。だから難しい、けっきょく、教学的なことになって来る訳なんだけど。
私は、だから思いましたですね。そんなら、あの、生神金光大神と申すことは、ということになったらね、分かりやすくなったです。生神金光大神とはということ。ね。生神金光大神と申すことは、ということになったら、皆さんも分かられるでしょう。ね。実意丁寧神信心をなさった教祖様がです、神様から、ね、まず下葉の氏子として愛されなさった。神門拍手を許されるようになった。教祖様が拍手を打たれると、神様がお扉をお開けになるほどしの事になって来た。
金子大明神とか、金光大権現とかというに、御神格が一つひとつ進まれた。ね。そして、生神金光大神という、もう、至高のもの、ね、最高のもの。天地金乃神と同根というところまで御信心、いわゆる、御神格が進まれた。だから、生神金光大神と申すことは、そういうことなんです。ね。
ですから、天地金乃神と申すことは、どういうことになりますか。いわゆる、大神格であるということです。ね。なら、その、大神格であるという、その大神格者でお在りになる天地金乃神様ということはです、ね、それこそ、性は天地、名は金乃神ということなんです。ね。
その、なら、御内容であるところ、それから御働きであるというところは、なら、どういう働きをなさるかと言うとです、ね、天地そのものではなくて、天地そのものの大元であるところの働き。言うなら、生きとし生ける者をお生かし抜き下さる働き。だから、天地というだけじゃないですね。
天地を動かしておられる、その原動力のそれを、天地金乃神と申すことは、そういうことなんだ。だから、天地は神様のご自由であり、この天地は言うならば、天地金乃神様の所有物なのだ。そこんところが、ね、氏子の家屋敷。言うなら、神仏の宮寺、氏子の家屋敷、みな神の地所ということになる訳なんです。
ね、だから、そういうところを、例えば甘木の初代なんかは知られたわけです。天地の親神様の御働き、と。それから、天地の親神様の御物ということを悟られた。ここで、天地金乃神と申すことは、ということが分かるでしょう。だから、難しい私は教学風にここは説かなくて、そのような風に説いたが一番いいのじゃないか、と。天地金乃神と申すことは、と言うてご自分を説明しようとなさっておられる感じなんです。
それを、なら、説明を受けさせて頂くとです、只今申しますようにです、日柄も言うことはいらん、方角も言うことはいらんほどしの、神様の御働きの中にある私どもであるということが分かると、それが自然と解消して来るわけ。ね。天地の親神様の、いわゆる神愛の中にある中にです、ね、この辺などうも悪かとか、よかとかと。ね。日々のことでも、何の日がよくて、何の日が悪かなんていうなことが、あろうはずがないことが、段々分かって来る。神様の神愛の中に、日々があるのだということ。ね。
そして、只今申しますように、いよいよ神のおかげを知らんから、違い違いになると仰る。そういう神のおかげを分からせてもらい、神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続くと仰るのですから。ね。一年勝り、大勝りのおかげを受けさせて頂きたいという願いが、お互いが持っておるのですから、それには先ず、今日は神の機感に叶う信心をです、私どもの先達であるところの先生方の御信心を聞いて頂いて。ね。
そして、神の機感に叶っておられる印が今日に残っておるのであるから、もう、これは生きた言うならば( )なのです。ですから、その先生方の言うなら真似方でもさせてもらうという信心がなされることが、神の機感に叶うという。どうぞ、今日も神の機感に叶う一日でありますように、と。
だから、先ずこの願いが第一なされるほどしの信心を頂かにゃいけませんよね。(テープ切れ)